1990年のデヴィッド・ボウイ/Sound + Vision(サウンド&ヴィジョン)ツアー

David Bowie

日本ではバブル経済のピークだった1990年、デヴィッド・ボウイはSound + Vision(サウンド&ヴィジョン)ツアーと銘打ったワールド・ツアーを行っていた。

スポンサーリンク

Sound + Visionツアーとは?

デビューから当時までの代表曲を網羅したヒットパレード的な選曲で、ボウイがこのような選曲をしたツアーはこの時だけだった。

そしてこれらの名曲は、このSound + Visionツアーの後には2度と歌うことはないと宣言したのだった。

常に新しいサウンドを追求し、過去を振りかえらなかったボウイが、なぜこんなツアーをしたのか?
それは当時のボウイが低迷期だったからだった。

アルバム、ネヴァー・レット・ミー・ダウン の商業的、音楽的な失敗以降これといった活動が出来ないで疲れきったボウイは新バンド、ティン・マシーンを結成し、もうバンドの一員として活動するからソロの曲はやらない!って発言していた。(その後、覆される)

当時のボウイの状況

90年当時のボウイは、すでに過去の人扱いになっており発売予定だった過去のソロアルバムのリマスター作業は大幅に遅れてジャパンツアーの頃でもまだベルリン時代が発売される手前だったと記憶している。

だからこの時のライブに来ていたのは、LPをリアルタイムで聴いていた世代か、リマスターされたCDを途中まで聴いた若い世代に限られるので、かなり中途半端な時期だった。

スポンサーリンク

ツアーの内容

それまでの派手な演出のツアーが嘘のような超シンプルなツアー。

選曲は各国ごとにアンケートをとって上位に入った曲をレパートリーに入れ替えていた。
日本では他の国であまり演奏しない『スターマン』などが加わっている。

David Bowie : Starman (Tokyo 1990)

バンド編成は最小限でギターもエイドリアン・ブリューひとりしかいない。
っていうかブリューがいたおかげで何とか成立しているバンドだった。

ボウイの衣装は白のシャツに黒のスーツでバックスクリーンもほとんどモノクロだったので、葬式ツアーとも呼ばれていた。

同じツアーの他の国のライブを観てもさほど良くないのに東京ドームのライブは、ボウイはかなり張り切っている印象を受ける。

他のツアーではあまり熱唱するタイプじゃないのに中盤から後半へ進行するにつれかなりヒートアップしている。

今となっては、それはこの時期のボウイならではの焦りなのかなと感じる。

いったん過去をリセットしてやり直したいけど俺はまだまだやれるんだ的な熱い思いもあったのかも知れない。

バンドの演奏は全体的に控えめな演奏ながら、『ヤング・アメリカン』『フェイム』などのアメリカ時代の曲のアレンジは、オリジナルよりもソウルフルで他のツアーのバージョンよりもカッコ良い。

『ヒーローズ』のアレンジはオリジナルにかなり近く、さすがフリップのギターを間近で見ていたブリューの再現度は見事だった。

このSound + Visionツアーを10代の頃と当時のボウイと同世代になってから見たら印象がかなり変わってしまった。

10代から見たら40代なんてかなりのオッサンだし、全盛期に生で見たかったなーなんて思いもあった。

今見ると当たり前だけど、晩年のボウイに比べればはるかに若いし、声量もある。

だけどこの年代らしい、このままで良いのだろうか?というような迷いや葛藤も感じとれる。

もちろん世界的なロックスターの気持ちなどは知る由もないけど、ひとりの中年男として妙にシンパシーを感じてしまうのだった。

来日当時のインタビュー動画でボウイは日本のチャート上位の音楽は上辺だけで好きではないと語っている。

この当時の日本の音楽はそれなりに充実していたと思うけど、96年頃のインタビューでは、この国のチャートほどひどいものはないとも語っていた。

ボウイがそれからさらにひどくなった今の日本のチャートの音楽を聴いたとしたら何ていうのだろうか。

created by Rinker
Parlophone
¥3,894 (2024/04/26 01:00:25時点 Amazon調べ-詳細)

1990年5月16日東京ドームライブの動画

このツアーの東京ドーム公演に当時高校生の私は行く予定だった。
しかし、チケットぴあで予約はしたのに支払いをせずに忘れて流れてしまった。

その後でNHKでライブ録画が放送され、その内容が良かったのでとても後悔した。

Sound + Visionツアーのライブ音源も映像もオフィシャルでは発売されていないし、NHKにも当時の映像はもう残っていないそうだ。

David Bowie Tokyo Dome, May 16th 1990

コメント